医のこころ
一般社団法人 日本医療学会

第9回「災害大国ニッポンに生きるー備災で減災を」

「災害大国ニッポンに生きるー備災で減災を」

敗戦から76年、この夏、僕は喜寿を迎える。幸運にも日本の近現代史上、「かくも長き戦争不在の時代」に生を受けて来た。

それでも振り返れば、台風・風水害、地震・津波、火山噴火など自然災害には毎年見舞われた。その関連、延長線上の事象として原発事故、新型ウイルス・パンデミックの未曾有な災害も発生。日本は「平和」ながら「災害大国」と化している。

間もなく東日本大震災から10年。「災害大国ニッポンは宿命」なのか。ならば「災害大国をどう生き抜くか」。我が体験から考えてみた。

1995年1月17日早朝、阪神大震災の「揺れ」を単身赴任していた大阪で体感した。前年の春、大阪へ転勤する時に、関西出身の知人に「地震が無いからいいね」と羨まれた。当時、「関西では地震は起きない」が一般常識だった。だから経験のない大きな揺れに大阪では「こんなに揺れたのだから東京はさぞ大変だろう」とのブラックジョークが流れた。

震源は淡路島・明石沖。一般には未知の活断層「野島断層」がズレた。以来、日本には2000以上も「活断層」があり、「どこで地震が起きても不思議はない」と国民は知ることになる。阪神大震災の最大の教訓は「日本に地震の安全地帯はない」だった。

阪神大震災の死者約6400人、うち83%が家屋や家具の下敷きの「圧死」。負傷者4万3800人の70%強が「家屋・家具の倒壊やガラスの飛散」に因る。

「関西に地震は無い」との非科学的な「思い込み」から「家屋の耐震補強」はもちろん「家具の固定化、ガラスの飛散防止策」はほとんど取られていなかった。

「防災」が「自然災害の発生を防ぐ」という意味なら、それは不可能。我々に出来るのは災害の発生に備え、被害を少しでも小さくする対策。つまり微細なようでも身近な「備災」に手を着け、「減災」に繋げる。関西で個人や家庭が家具固定化などの「備災」に取り組んでいたら「死者、負傷者は大幅に減った」と推測されている。

それから16年後の2011年3月11日午後2時50分頃、僕は大阪のテレビ局の9階でゆったりした横揺れを感じた。丁度、テレビで国会中継を観ていた。審議中の委員会室のシャンデリアが揺れ、菅直人首相以下が驚いた様子が映った。東京と大阪が「同時に揺れる」を体感、目撃したのは初めて。「この地震は大きい」と直感した。

東日本大震災は「1000年に一度」とも言われる強さで、巨大な津波が発生した。死者・行方不明者約1万8500人の原因は91%が津波。三陸海岸から福島県にかけての太平洋岸は歴史的に「地震と津波」に最も頻繁に襲われた地域。「天災は忘れた頃にやって来た」訳ではない。自治体・住民は「大きな地震は津波を伴う」を知りながら、沢山の死者が出た。それは地震・津波が 「想定を超える規模」だったからだ。

もう一つ東日本大震災で「想定外の事態」は東京電力の福島第一原子力発電所の事故。津波による電源喪失で、3基もの原子炉がメルトダウン(炉心溶融)した。地球を脅かす大事故。日本の原発推進のバックボーンとなっていた「安全神話」は幻想だった。

この事故は国会の調査委員会も「人災」と断定した。児童74人,教職員10人が津波に飲み込まれた大川小学校の訴訟でも「宮城県と石巻市に事前防災の不備あり」の判決が出た。つまり「災害への備え、備災を怠った過失」を認定した。

東日本大震災の教訓・警告は「どんな自然災害も『想定外』と思考停止し、責任回避は許されない。限りなく『人災』と受け止め、備災に努める」、「原発の安全神話は崩壊した」である。

大きな災禍は社会を変える。阪神大震災では1日平均2万人、3ヶ月で延べ117万人のボランティアが駆けつけ、日本の「ボランティア元年」と言われる。これを契機に日本の教育、企業社会にもボランティア活動を奨励、評価する空気が醸成され、ボランティアが災害復興支援に大きな役割を果たしている。

東日本大震災では内外から嘗て無い多額の寄付が寄せられた。2011年の日本人個人の寄付額は1兆182億円、前年比約2.1倍増で,日本人の約7割が寄付した。欧米に比べ寄付文化の乏しい日本の「ドネーション元年」になると期待された。

しかし、残念ながら翌年の寄付は半減、日本人の寄付精神の向上は一過性と見えた。ところが2014年から再び寄付額が増え始めた。それは「ふるさと納税」に名を借りた「寄付」だった。菅義偉首相が官房長官時代に推進した自慢の政策。2019年の寄付額は4875億円にも上っている。

ふるさと納税の利用者は返礼品目当ての「節税」が実態。これを「寄付」計上する日本に「ドネーション文化」が根付くのは無理。「ボランティア」と並んで災害支援になる、との期待は早計だった。

目下、日本の最大の課題は「コロナ禍の東京五輪開催」。東京五輪は当初は「(震災からの)復興五輪」がキャッチフレーズだった。ところが五輪の東京開催が建築資材の高騰や人手不足を招き、反って震災復興の足を引っ張った。そしてコロナ・パンデミックが発生すると「五輪はコロナに打ち勝つ証」へ摩り替わった。

東日本大震災から10年、日本は大津波にも原発事故にも懲りずに、「備災」を怠り、「災害大国」脱出の機会をまた逸したのではないか。先の敗戦に続き「失敗の本質」を微細に点検しなければならない。


2021・2・23
上田 克己

プロフィール

上田 克己(うえだ・かつみ)
1944年 福岡県豊前市出身
1968年 慶応義塾大学卒業 同年 日本経済新聞社入社
1983年 ロンドン特派員
1991年 東京本社編集局産業部長
1998年 出版局長
2001年 テレビ東京常務取締役
2004年 BSテレビ東京代表取締役社長
2007年 テレビ大阪代表取締役社長
2010年 同 代表取締役会長
2013年 同 顧問
現在、東通産業社外取締役、日本記者クラブ会員
趣味は美術鑑賞

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